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Annex~別邸~

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近世ヨーロッパにおける兵站術についての一考察

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近世ヨーロッパにおける兵站術についての一考察


補給戦―何が勝敗を決定するのか (中公文庫BIBLIO)


「素人は戦術を語り、玄人は戦略を語り、プロは兵站を語る」と良く言われます。しかし良く言われる割に、兵站を語った書物という物は多くありません。

 特に近世ヨーロッパの兵站を題材にした一般的に手に入りやすい書物というとファン・クレフェルトの「補給戦」くらいしかないのが実情です。しかしこのクレフェルトの「補給戦」はナポレオン時代の革新性などを馬鹿げた俗説を排して巧みに説明する非常に優れた著作である一方で、まったく余所から反論がない書物という訳でもありません。

 そこで、今回はこの補給の問題の中から、パンの補給について考察してみました。

 クレフェルトの著作における近世ヨーロッパの兵站の基本主張は、当時において「現地徴発が戦略の基本」であるというものです。これは、兵站の荷馬車隊と軍需品倉庫に依存して機動力がない、と一般に言われる近世ヨーロッパ諸国軍に対するこれまでの見解と真っ向から対峙した主張でした。

 彼の指摘の詳細は著作を読んで戴くとしても、多くの点で示唆に富んでいることは間違いありません。簡単に言ってしまえば、当時の輸送力の限界を考えた時、後方からの補給だけに頼って数万の野戦軍を維持することは不可能であるという彼の主張はまったくもって正論です。これに対して詳細に検討をしていない戦史家は、仕事をさぼっていると言われても何ら反論できないでしょう。

 しかし、彼の主張は極論に走りすぎている場合があることも事実です。例えば彼は次のように述べています。「後方から送られてこない90%の補給物資を得るための必要性が、送られてくる10%の補給品以上に、軍隊の行動を左右したに違いないことは明らかである」そして「戦争に、兵站術が影響を与えたことはもちろん事実だが、しかしこの影響は、軍の移動を制約する、いわゆる「補給という命綱」とはほとんど関係がなかった」

 彼は著作の別の場所で、補給物資の90%以上が馬などの役畜のための馬糧であり10%程度が兵士のための食糧であることを計算から求め、そして必要な馬糧が莫大にのぼることを示しています。このような馬糧は多くの場合、現地で手に入れなければならなかったことは言うまでもない、というのがクレフェルトの立場です。そして馬糧が余りにかさばる代物で、現地調達に依存する所が大であったことは万人が認めることでしょう。

 とはいえ、既に察しの良い方はお気づきかも知れませんが、クレフェルトが重要度が劣るとした「10%の補給品」は兵士の食糧です。つまり彼の論理は、成人男性は1日当たり9g程度しか塩分を必要としないから塩は重要でないという誤った論理と等しいと言えます。実際のところ、必要不可欠な物は全体比率が如何に低くても、欠いてはならないものです。

 この点について鋭く指摘をしたのが、近世からナポレオン戦争期までのフランス軍についての研究を行っている歴史家ジョン・A・リン教授でした。彼は次のようにクレフェルトの誤りを指摘しています。「しかし10%という補給品の少数派が軍のパンであり、90%の多数派が圧倒的なる飼料なのである。つまり10%について考えるのをやめてしまうなら、その軍は餓えに苦しみ、消滅してしまうだろう」リンの指摘が的を射ていることは明らかです。

 もちろん、クレフェルトにも言い分があります。彼はそもそもパンすらも現地で調達可能との立場だからです。彼は著作の中で「ヨーロッパの人口ちょう密度と農業の発展によって、軍隊がその移動中完全に食糧を得るようになったことは、次の数字が示すであろう」として計算を行い、問題となるのは「包囲戦の時」だけであると指摘しているからです。

 しかし、この計算には矛盾がありました。クレフェルトは1平方マイルの人口密度を平均45人として、その地方は自給していると仮定しました。そして通常戦役期間6ヶ月にこの地方の人間が消費するパンの量は1日当たり2ポンドとすると、パンの消費量は180×2×45=16,200ポンド、小麦にして12,150ポンドとなります。(ここでは小麦量とパンの製造比率を3:4としています)少なくとも、この量に相当する小麦粉が当該地域にあったと考えられます。

 一方で軍は6万名と推定し、従卒を含めた必要量はパン90,000食となります。これは1日当たりのパンの必要量は90,000×2=180,000ポンド、小麦にして135,000ポンド/日となります。

 この軍が1日平均で10マイルの行軍速度で10日間行軍し、徴発隊は道の両側をそれぞれ5マイル以上離れないと想定すると、10日間の現地調達地域は長さ100マイル、幅10マイルに及び、それは面積にして1,000平方マイル、地域内の小麦備蓄量は12,150,000ポンドとなります。

 これに対し軍の小麦消費量は10日間であれば1,350,000ポンド/10日となります。つまり、現地備蓄量のおよそ10%程度です。クレフェルトはこの計算結果を論拠として、パンの現地調達は可能であると結論づけています。

 しかし、クレフェルトは次の事実を考慮していないとリンは指摘しています。それは、穀物を手に入れることができることと、パンが手に入るということは等価ではないということです。簡単に言ってしまえば、穀物を小麦粉にして、練り上げて、パンとして焼き上げる作業をクレフェルトは考慮していないのです。

 上記の地域で考えれば、1日の徴発隊の行動範囲は1日の行軍距離×道の両側=10×10=100平方マイルで、人口4,500人です。つまりこの地域が生産できる1日当たりのパンの生産量は、これにかまどの稼働率を掛けた値になります。仮に昼夜兼行で現地のパン職人を働かせたとしても、稼働率は3倍を越えることはないでしょう。つまりどんなに多く見積もっても精々13,500食分のパンしか1日当たりに生産できません。

 しかし軍は90,000食分/日を必要とします。パンの生産は全く追いつかないのです。範囲を広げれば供給は可能だったでしょうが、そうするとパンを運ぶ専門の荷馬車隊が必要となり、しかも輸送距離は1日行程を超えるため、最早それは後方からの補給と同義となります。しかも稼働率は日増しに落ち込むため状況は悪くなるでしょう。ルイ14世治下のフランス軍は携帯用のかまどを準備したことがありますが、壊れやすく直ぐに破棄されています。

 一方で、野営用のかまどは2.5日で建設可能で、2,500食/日の生産量がありましたから、ある一定期間、その地域にとどまるならば、軍用補給基地を建設して、そこに20~30基のかまどを設置すれば地元の生産量と合わせて、自活が可能となったと思われます。

 つまり簡単に言ってしまえば、現地調達にあわせて何らかの形で大規模な食料補給を実施しなければ軍は行軍中であっても生きていくことができないのです。リンはルイ14世の時代のフランス軍の行動範囲を見れば、この事実は歴史的に証明されているとして次のように述べています。

「軍が自活する土地の供給量から推論した兵隊の機動力と、フランス軍の行動半径を見ると、それらが合致することは極めて稀であった。ピュイセギュールは17世紀初頭のより小規模な軍は長い距離の遠征を実施できたが、ルイ14世時代の大規模な野戦軍は軍需品倉庫に縛られていると述べている」

 クレフェルトは食料と秣をごっちゃにしており、結果として読者の誤解を招いたと言えるでしょう。クレフェルトはまた、ル・テリエが改良して大規模に活用したエキパージュ(補給隊/食糧隊)について「これは特別の兵隊によって指揮された常設の車両部隊であって、食糧を後方から運んで軍隊と共に戦場に持って行くよりも、数日間の予備品を持った移動倉庫を引っ張って行くことを目的とした」と述べていますが、これについてもリンは次のように反論しています。

「ファン・クレフェルトは・・・・・・補給段列の記述を誤解して、予備品の役割を果たしたと見なしたが、それは間違っている。補給段列は明確に、オーブンと軍隊の間を往復するように計画されていたのである」また、このエキパージュは護衛隊を除いて、商人である糧秣供給人によって雇用された民間の輸送組織であり、決して兵隊ではありませんでした(現地住民の業者を雇う場合もあったでしょう)。

 では、マールバラ公による1704年の偉業はどのように説明され得るのでしょうか? リンは彼の軍が味方支配領域を進んでいったことを指摘して次のように述べています。

「この偉大なる機動が証明したものはなんであったろうか。それは17世紀の軍が容易く軍需品倉庫の頸木から逃れ得たことを示しているのだろうか? そうではない。マールバラ公は行軍の最中に兵士を養ったが、それは徴発と略奪を通して現地調達を行ったからではなく、行軍路に沿って注意深く準備しておいた市場において糧食を購入することによって実施された。これは唯一、彼の軍が友邦地帯を進み、敵と相対しなかったが故に可能なことであった。彼の成し遂げたことは金銭で溢れんばかりであった野戦金庫によって裏打ちされた注意深い管理と計画、そして柔軟性の成果であった」

 クレフェルトも同じ様なことを述べていますが、軍需品倉庫が行軍中には必要なかった事例として重きを置いています。けれど、考えてみれば、当時同じことを成し得た軍は他に存在しませんでした。マールバラ公ですら、二度とこれほどの行軍を成し得なかったのです。そして、そのことは同じく1704年にマールバラ公の軍を迎撃するべく平行行軍を行ったタラール元帥のフランス軍を見れば明らかです。

 彼らも、マールバラ公を追跡するために、同じ様な行軍を行わざるを得ませんでした。そして、マールバラ公が事前準備をする余裕があったのに対し、彼らにはその余裕がありませんでした。その結果、彼らの軍は戦う前に疲弊しきってしまいました。

 つまるところ、1704年のマールバラ公の長距離行軍は他に真似できない偉業であり、それは決して17/18世紀の典型例ではありませんでした。このように考察をすると、近世における戦争がなぜ、要塞を巡る消耗戦となったのかがよく分かります。

 一方でクレフェルトが全面的に間違っているわけではないということも、改めて指摘しておかなければなりません。たとえば彼はナポレオン戦争の画期を、要塞を包囲しても尚、前進できるだけの兵力があったことだと指摘しています。そして、それはその通り、正しいのです。ただ、彼は近世の戦争における後方からの補給の重要性を過小評価しただけです。

 またクレフェルトはナポレオン戦争期のウルム会戦における補給事情を詳述して、補給備蓄の状況によってシュヴァルツヴァルト迂回が選択されたとしています。これこそが、軍需品倉庫の重要性を如実に示すものと言えるでしょう。これを考慮すると、クレフェルトは自説を強調しすぎる余りに、近世の軍需品倉庫と後方補給システムを過小評価してしまっただけとも言えます。

 実際のところ、17/18世紀、ナポレオン戦争期のいずれにおいても、野戦軍への糧食補給は、後方からの補給と現地徴発/調達の二本立ての比重を操作することなのです。そして常に問題となるのは、金銭と輸送と生産でした。

 馬糧の話や他の補給物資、軍税の話はまたいずれ。


補給戦―何が勝敗を決定するのか (中公文庫BIBLIO)
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