にしても、最近は兵站分野もメジャーになってきましたね。
こんな本も出てますし。良いことです。
太平洋戦争のロジスティクス
閑話休題。
ともかくも、ポーランドと「大砲とスタンプ」です。
このマンガは架空の世界の出来事を描いていますが、地図を見るとヨーロッパとトルコあたりに架空国家を設定しています。
そしてこの中にポーランドと目される国が出てくるのです。
それが帝国です。
(主人公マルチナの所属する大公国の同盟国)
作者さまのインタビューでも、ポーランドっぽい国と言われています。
第53回 速水螺旋人先生インタビュー【靴ずれ戦線/大砲とスタンプ】
http://tokyomangalab.com/?interviews=rasenzin-hayami「あの世界で一番強いのがポーランドっぽい国なのは、僕の趣味などがモロに出ていますね(笑)。それにドイツ風の強大な帝国というのはありがちな設定だと思うので、それだけでは読者に引っかからないと思うんですよ。」
ポーランドが世界最強国だなんて、奇想天外。
と、知らない人が読んだら思うかもしれません。
それこそ作者さまが言っているようにドイツっぽい国ならそんなことはないでしょう。
けれどポーランドなのです。そして、それにはキチンとした歴史的可能性がありました。
カール12世も、ナポレオンも、ヒトラーもロシアの首都モスクワを陥落させられませんでした。
しかしポーランドはモスクワを占領してツァーリの位を奪っています。
近世ポーランド軍についての本を書いているブレジンスキーが言うように
「長期間にわたりポーランドとモスクワ国家との勢力争いはどっちに転んでもおかしくはなく、ただ偶然にもポーランドではなくモスクワ国家が「ロシアをまとめ上げて」東欧の最強国となっただけ」なのです。
我々が思う以上に、中近世においてポーランドとロシアの勢力争いは拮抗していました。
私自身の考えですが、特にポーランドにとっての一大好機は、上述したようにモスクワを占領してツァーリの冠をポーランドの王太子ヴワディスワフの上にかぶせた時代だったと思います。
ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)ウィキの評価だと結構散々言われていますが、彼はポーランドにおける「グスタヴ2世アドルフ」でした。あるいは「グスタヴ2世アドルフになり損ねた男」と呼ぶべきかも知れません。
彼は大変気さくな人物で、当時、ポーランド国内でも人気が高い王様でした。
大陸旅行中にはアルプス山脈で道案内してくれたスイス人の農夫と親しく会話を交わして最後は握手をして別れたなどのエピソードの持ち主です。
大動乱時代のロシアに乗り込んでツアーリの冠を獲得して1616-18年までの戦いで優れた軍事指揮官と成長します。
1621年にはオスマン帝国の侵攻に立ち向かうべく最前線に赴いて、勝利に貢献しました。
グスタヴ2世アドルフの侵攻に際しては、自身も戦場に立ちました。
前述したように王太子でありながら1624-25年に大陸旅行もしたヴワディスワフは、ドイツ旅行によってそれに気付いたグスタヴ2世アドルフと同じように、西欧軍事技術の進展を良く理解していました。
1632年に即位した彼の主導の下で、軍制改革が行われました。
スウェーデンとの戦争での苦戦の原因である火力不足を補うためにドイツ式の歩兵隊を正式に軍制に取り入れ、砲兵隊も拡充されました。
ウィキペディアではコニェツポルスキが海軍を作り、軍制改革を志したかのように書いてありますが、実際の所、それはヴワディスワフの意志でした。
wikiスタニスワフ・コニェツポルスキその成果は対ロシア・オスマン戦において発揮されました。
スモレンスク戦争と呼ばれるこの戦争で、ポーランド軍は歩兵と砲兵、騎兵を巧みに組み合わせて勝利を得ました。
おまけにこの戦争はロシアとオスマン帝国との二正面戦争でもありましたが、オスマン帝国戦線はコニェツポルスキに任せることにより勝利しています。
もしも彼がこの軍隊と彼の名将を自由に使うことが出来ていたならば、彼はもう一人のグスタヴ2世アドルフとなっていたでしょう。
しかし、ポーランド・リトアニア共和国の議会は、強力な王権の誕生を怖れ、彼の手足を縛るかのように、その野心的な計画に反対を続けました。
結局、彼にとってスモレンスク郊外での勝利が自身最後の栄光になりました。そして、これが共和国が列強として振る舞った最後でした。
ポーランド貴族(シュラフタ)は彼が追求しようとしていた積極的外交政策を支援する気がないことを決めて彼を苛立たせました。
30年戦争を介してシレジアに向けられた彼の野心的な計画や、1640年代後半における対オスマン大同盟を結成しようとする計画は、シュラフタの一致した反対にあって頓挫しました。
当時のポーランド人たちはその政治システムを賞賛して「君主の野心的計画をきっちりと制御した」と述べています。
これが「大砲とスタンプ」の世界における帝国と、現実のポーランドを分岐させた全てでした。
もしも、ポーランド・リトアニアの連合国家が共和国でなく、「大砲とスタンプ」の世界のように帝国であったなら、あるいはこの時期までに帝国へと変質していたならば、後の出来事は大きく変わっていたことでしょう。
しかしそうはならなかったのです。ポーランドのこのシステムはあっけなく崩壊しました。
1648年5月16日、肥満し痛風に苦しむヴワディスワフが突然に死ぬ4日前、ポーランド軍の一部が容赦ない2週間にわたる防衛戦闘の後、コサックのヘトマン、フメリニツキに指揮されたコサック反乱軍とタタールの同盟軍によって壊滅しました。
10日後、5000名強の共和国正規軍の中核が壊滅し、二人の共和国のヘトマン、ミコワイ・ポトツキとマルチン・カリノフスキがタタール軍の捕虜となりました。
続く数週間の内にウクライナはコサックと農民の大反乱に包まれ、ポーランドは大洪水と呼ばれる時代に突入します。
それは文字通り全てを押し流しました。
ポーランドは「ロシアをまとめ上げて」東欧の最強国となるどころか、国家分割、そして滅亡への運命へと、その一歩を踏み出してしまったのです。
もしも、この時期に共和国が絶対主義国家へと変質していたなら、世界はその後、どんな風になっていったんだろうと考えると、大砲とスタンプ」の世界もあながち、完全完璧な絵空事ではないのだなぁと思います。