ストックホルムはオペラ座の裏、
クングストレードゴルデン公園に彼は立っています。
剣を右手に提げ、左腕は遠く伸ばされ、その指は遙かなる東、ロシアの空を示す。
正しくそれは偉大なる戦士王の姿です。
しかし不思議なことがあります。なぜ、彼はこんな格好をしているのでしょうか?
この銅像が落成を迎えたのは、1868年11月30日でした。
つまり、カール12世が銃弾に倒れてから150周年の記念日のことです。
この頃、スウェーデンはナショナリズムの時代の中にありました。
ナショナルリベラル、汎スカンディナヴィア主義。
それは正しく自由主義と愛国主義。民族的自意識が高まっていた時代でした。
そんな空気の中で、カール12世の銅像は建立されたのです。
銅像建立運動は1862年に始まりました。
イタリア統一は1861年。これに刺激され北欧諸国における政治的スカンディナヴィア主義は絶頂にあり、時の国王カール15世をヴィットリオ・エマヌエーレに例えて「われわれにはただカヴールのみが欠けている」とまで言われる空気がそこにはありました。
そのようなところに飛び込んできたのが、ロシアによるポーランド愛国者たちへの不当なる弾圧の報告でした。
時あたかも1863年ポーランド「
1月蜂起」前夜。全ヨーロッパの自由愛国主義者たちは、ロシアの横暴に等しく怒りの声を上げていました。
特にスウェーデンにあっては、ナショナルリベラルの政治的目標として、対ロシア復讐戦、フィンランドの回復があるなど、ポーランドにおけるロシアの抑圧は、あたかも我が事の如し。
そのため、1862年のポルタヴァ会戦記念日は、偉大なる国王がロシアに挑んだ日となり、かくて巨大な集会が開かれました。招かれたポーランド人、ハンガリー人、そして統一を成し遂げたばかりのイタリア人の自由愛国主義者ちもまた、カール12世の過去の偉業を讃えます。
その中でカール12世の銅像建立の許可を得るための募金が行われたのです。
共感が共感を呼び、その額は瞬く間に11000リクスダーレルに及び、銅像建立は決定されました。
このような経緯があったからこそ、1868年11月30日に落成を迎えた銅像は、ロシアを指差したのです。「ロシアの脅威に備えよ!」
いつの時代でも政治に利用されるのが歴史です。
しかし銅像を巡るドラマはこれだけではありませんでした。落成式を前にして、自由愛国主義者たちと政府側との激しい戦いがあったのです。
落成式は、建立決定にまつわる政治外交情勢にあるとおり、そして民衆からの募金/寄付によって建立されていたが為に、スウェーデン人の注目を集め、その式典は民衆のためのものであるという暗黙の了解が自由愛国主義者たちの中にはありました。
しかし式典開催側は、そんなことを考慮することもなく、富裕層のための巨大な式典観覧席を設けて銅像の周囲を覆ってしまったのです。
これでは折角の、我らが銅像を見ることが出来ぬではないか!
怒り狂った自由愛国主義者たちと民衆は徒党を組み、抗議の声を上げ、それは暴動へと発展。ついには政府騎兵隊の突入を持って終結するという事態となりました。
最終的に、観覧席の高さは低く設定し直され、騒動は落着するかと思われましたが、落成式当日にもまだ、エピローグが残っていました。
銅像建立を主導していた政治家
アウグスト・ブランチが、自身の勝利に酔いしれながら民衆のパレードを率いて行進する途上で、突如、倒れて亡くなってしまったのです。
まったくもって、驚きの結末でした。
死んでからも、ドラマに事欠かぬのが英雄と言えるのでしょうが、どうにもカール12世もなかなかやるものですね。
それにしても、後年のカール12世は、ロシアと手を結んで、まずはドイツ方面の領土の奪回を狙っていた節があるので、あの格好に対しては、草葉の陰から一言あるかもしれません。
だいたい、カール12世のおきまりのポーズは、鞘に収まった剣の柄に左手を置き、右手は腰あたり。もう一度、作るなら、是非こっちでお願いしたいところです。
晩年の禿げた頭に右手を置いて、薄くなった毛を梳いているポーズでもOKです。
若禿を気にしている感じで萌えます。
物語 北欧の歴史―モデル国家の生成 (中公新書)
北欧を知るための43章 エリア・スタディーズ
スウェーデンを知るための60章 エリア・スタディーズ
北欧史 (世界各国史)